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2012/06/01

芭蕉の句碑がある小野峠 つるぎ町半田

雲雀(ひばり)よりうえに休ろう峠かな 芭蕉
の句碑がある、小野峠はつるぎ町半田のJR半田駅から旧半田町役場方面へ向かう坂道を上りきったところにあります。
車道で切り通されてるので、まず、東側の尾根に上がると、大きな庚申塔が並んでます。
右側の景色は半田の町並み。
小野峠1

尾根を用水が通ってます。
小野峠2

西側に上ります。なかなか急な階段です。
用水も流れてます。
小野峠3

見性寺のお堂があります。
小野峠4

ここには、町指定の有形文化財 天人飛雲之図があります。勤王画家、森寛斎の作と伝えられています。
小野峠5

如意輪観音坐像。室町期の作と伝えられています。
小野峠6

そして、松尾芭蕉の句碑があります。
句碑の裏面には天保十四年卯年三月とあります。
松尾芭蕉が訪れたのではなく、半田の地では俳句が盛んだったことから、建てられてるようです。
小野峠7

北側、吉野川や阿讃山脈方面の眺望。雲雀が下で鳴いてるのが聞こえてきそうですね。
小野峠8
峠がたくさんあり、そこに石造物が残るにし阿波暮らし。峠を自分の足で歩くと、また違った世界が見えてきます。

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新編 美馬郡郷土誌(昭和30~32年調)編集 笠井藍水 から少し引用します。
森寛斎と半田
寛斎は長州藩士で幕末の頃、森徹山に画を学んだが勤王に尽くし、明治中年まで生存し日本画の巨匠として最初の帝室技芸員に挙げられた。志士として奔走中一時琴平に滞在し、前田半田を訪ねて半田に来遊し前田家に寄寓して画筆を揮うたと伝う。造作として八幡神社の奉額(焼失)と峠庵(見性寺のこと)の欄間絵がある。 注 寛斎は峠庵に居住した。(小浜氏報)

前田半田(ハンデン)
生死 寛政5、6年頃京都で生まれ明治10年死。
半田町逢坂の医師前田掘養は青年の頃京都に出て医術を修め同地で妻を娶り一子をあげた、これが半田で幼名を春太郎と云う。三歳の時掘養が死亡し母に伴われて一時父の生家に帰った。長じて京都に出て画を学び暢堂と号して画名を挙げ、天保6年42、3歳の頃半田に帰り生家に画を残したと云う。半田と改めたのは明治5年のことである。

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コメント

非公開コメント

「天人飛雲の図」、つるぎ町のサイトにありましたね。
http://www.town.tokushima-tsurugi.lg.jp/bunnkazai-kaiga.html
町のサイトにはひょっとしたら三好賢古の絵かもわからないとありますね。

前田半田のこと、新編美馬郡郷土史に載っていますか。そうですか。
先日も図書館で前田半田のこと、いろいろな辞典でこぞろ(これって完璧な徳島弁?他の県でも言うのかな?)を集めるように読んでいたんです。
三歳でお父さんを亡くしお母さんと一緒にお父さんのふるさと半田に移り住んだことまではわかっていたんですが、お母さんは半田の人ではなかったようですね。
お父さんの実家から「こちらなら母子二人ぐらいどうでも食べて行けるからこちらに来なさい」と勧められたんでしょうね。

前田半田は再度京都に出てからも頻繁に半田に帰っていて半田にかなりの絵が残されているとか。
(前田半田には父のふるさとの居心地がよかったようですね。あるいは再上京のさい母親は半田の地に残ったんでしょうか。いずれにせよ半田の実家の人々のやさしさが目に浮かびます。)
つるぎ町に残された前田半田の絵を集めて展示会をぜひ開いてもらいたいです。
そのときは必ず見に行きます。

石碑に刻まれた芭蕉の句、いい句だなあ。
これを峠の石碑の句に選んだ人の感性に感服します。

Re: タイトルなし

阿波狸さんへ

芭蕉のこの句、小野峠にぴったり来ますね。
高い山の峠でなく、里の小山の峠。付近には民家や畑などがあります。
足下を飛ぶ雲雀の風景。いいですね。

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Re: No title

非公開さんへ

コメントありがとうございます。
この芭蕉の句碑はどこにあるのでしょうか。とのご質問ですが、
階段を上がって、右手に見性寺がありますが、
上がってすぐの左手にお墓があって、そこに句碑があります。
探してみてください。

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