夏草の重清城跡と虹
先日美馬市美馬町重清にある重清城跡を訪れると、東の空に虹が出ていました。
写真では少しわかりにくいかもしれません。虹、いいですね。希望がわいてくる明るさを持っています。
重清城での戦いを慰めてくれてるのか。と思ったりしてしまいます。

重清城跡。

堀と土塁跡が残っています。
重清城の戦い。新編美馬郡郷土誌 笠井藍水編集(昭和30~32年調)から一部紹介
城主 重清豊後守(小笠原長政)、父重広は尾張の人。明応中阿波に来て三好氏に仕え重清城に居り三百貫を領した。
白地城主大西角養は長曽我部の手先となり重清城を奪う計略で、その弟大西七郎兵衛及び久米刑馬(重清中鳥城主)の二人は、天正六年正月二八日重清城に来り宴たけなわの頃、忽ち起って豊後守を刺しその子女も殺したので城兵は離散し、角養が重清城に入った。その頃豊後守嫡男長定は三好実休の所へ参勤していたが奪回を志し、阿波の主将三好存保も怒って三千の兵を率い重清城に来り角養を誘うて攻めた。角養は城を捨て大西に帰ったが後伊予志摩郡にて害せられた。これより長定が城を守ったが、天正10年長曽我部の軍大挙して阿波に入ったので落城した。(以上諸説紛乱して正確でないが大略を記す)
現在重清村に小笠姓が多く豊後守の末葉と称し、其祖先が正月に亡んだから古来年頭に酒を用いぬ例であったと伝う。
(注)天正6年は1578年 主な出来事 上杉謙信が死去

夏草が茂っていました。
建物は小笠原神社。

花崗岩の石柱。重清城歴代城主合祀 小笠原神社

東側から見ます。
大きな木も茂っています。

歴史に残る戦いの跡が今も見られるにし阿波暮らし。歴史を感じる場所です。
場所はここ→ グーグルマップ
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写真では少しわかりにくいかもしれません。虹、いいですね。希望がわいてくる明るさを持っています。
重清城での戦いを慰めてくれてるのか。と思ったりしてしまいます。

重清城跡。

堀と土塁跡が残っています。
重清城の戦い。新編美馬郡郷土誌 笠井藍水編集(昭和30~32年調)から一部紹介
城主 重清豊後守(小笠原長政)、父重広は尾張の人。明応中阿波に来て三好氏に仕え重清城に居り三百貫を領した。
白地城主大西角養は長曽我部の手先となり重清城を奪う計略で、その弟大西七郎兵衛及び久米刑馬(重清中鳥城主)の二人は、天正六年正月二八日重清城に来り宴たけなわの頃、忽ち起って豊後守を刺しその子女も殺したので城兵は離散し、角養が重清城に入った。その頃豊後守嫡男長定は三好実休の所へ参勤していたが奪回を志し、阿波の主将三好存保も怒って三千の兵を率い重清城に来り角養を誘うて攻めた。角養は城を捨て大西に帰ったが後伊予志摩郡にて害せられた。これより長定が城を守ったが、天正10年長曽我部の軍大挙して阿波に入ったので落城した。(以上諸説紛乱して正確でないが大略を記す)
現在重清村に小笠姓が多く豊後守の末葉と称し、其祖先が正月に亡んだから古来年頭に酒を用いぬ例であったと伝う。
(注)天正6年は1578年 主な出来事 上杉謙信が死去

夏草が茂っていました。
建物は小笠原神社。

花崗岩の石柱。重清城歴代城主合祀 小笠原神社

東側から見ます。
大きな木も茂っています。

歴史に残る戦いの跡が今も見られるにし阿波暮らし。歴史を感じる場所です。
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