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2012/09/13

脇町の岩倉城跡

美馬市脇町にある岩倉城跡。
三好笑岩が築き嫡子徳太郎が守り、三好氏の美馬三好の根拠地であったともいわれています。
城跡からの脇町の眺め。(昨年ブログで紹介していますが、天候がいまいちだったので再訪)
岩倉城1

脇町が一望できる場所にあります。
岩倉城2

案内板があります。
岩倉城3

城跡と思われる所は、大きなクヌギの木などが茂っています。
岩倉城4

城主だった人のお墓でしょうか。
岩倉城5

南方面は木が茂ってますが、木がなければ見晴らしがいいと思われます。
城があった頃は周囲がよく見えたのでないかと思われます。
岩倉城6

実りの秋が近づいています。
左のこんもりとした場所は田上の観音堂のあるところです。
岩倉城8

通り道に咲く花。
岩倉城9
城跡がたくさん遺るにし阿波暮らし。訪れてみるとこの地に城を構えた理由が実感できます。

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コメント

非公開コメント

正直言いますと応仁の乱から続く戦国期の阿波の歴史は、にし阿波に特に限ったことではないのだけれど、裏切り、だまし討ち、寝返り、逃亡、奇襲などの謀略の連続で関心がわきません。

ひとつだけ例を挙げます。
岩倉城を築いた笑岩三好康長の長男の三好康俊のことが阿波学会の報告に載っています。
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/19/1916.htm
要約しながら、かつ私の知っている知識も加えて書きます。

岩倉城を築いた三好康長は河内高屋城にいたため、天正6年(1578)の岩倉城には三好方の城主として三好康長の長男の三好康俊がいました。
ところが吉野川上流から破竹の勢いで進軍してくる長宗我部軍の勢いに恐れをなして戦わずして実子を人質に出して降伏。

その年の暮れにはそれまでの同士でいまだ必死に長宗我部軍と戦っていた森飛騨守はじめ三好越後守、矢野駿河守、川村左馬亮といった三好方武将を嘘の手紙で岩倉城下に呼び寄せだまし討ちにしています。

しかるに天正10年(1582)5月、長宗我部の盟友だったはずの織田信長が手のひらを返すように三好康長(康俊の父)を先陣とする四国征伐の軍を起すと、康俊は「これは長宗我部も勝てるわけがない」と、またもや持ち城の岩倉城ごと三好方に寝返るのです。

その直後に本能寺の変。
信長の四国進攻計画は宙に浮くと同時に、長宗我部元親は「今ぞ好機!」と阿波の国盗りに拍車をかけました。
とうとう三好康俊は恐れていた長宗我部軍(総大将は長宗我部元親の叔父の長宗我部親吉)と岩倉で対峙せざるを得なくなったのです。

ところが長宗我部軍は岩倉城が落とせない。元親の本軍も来るのだけれど落とせない。
それだけ三好康長の築いた岩倉城は堅牢だったのです。

承前

城主三好康俊は父の築城能力も把握できず、部下の阿波兵の戦闘能力も把握できていなかったといえます。
ただ自分の命かわいさに寝返りを繰り返し醜態を晒しています。

結局、最後には長宗我部元親の「城を明け渡せば命だけは助けてやるぞ」の言葉にのって阿波国外に逃げ去っています。
自分が任されていた岩倉城の重要性すら理解できていなかったようです。

このような人物に美学を感じる人がいるでしょうか。

戦国時代は、「自分の一党が生き延びる」ことこそ第一義で、江戸期に成立した「忠」「義」「信」といった価値観を持って見てはいけないことは百も承知しているつもりですが、それにしてもこのような事象が阿波の戦国期には多すぎて嫌気がさしてきます。
このブログの9月7日の「重清城」の紹介でもだまし討ちの話が出てきました。

私的にはやはり稲田植元まで「これは」という武将はにし阿波に出てきません。
(三好長慶は別です。)

Re: タイトルなし

阿波狸さんへ

眺望の良い城跡から脇町一帯を見ていると、戦国時代の様子が想像されてきますね。
そして雄大な吉野川の流れも見られます。