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2012/10/18

吉野川の川湊 池田千五百河原の「はまの港」

吉野川の川湊があった三好市池田町千五百河原。
国道32号・192号池田トンネルのすぐ下です。
はまの湊1

河原からは諏訪神社へ通じる急な石段があります。
はまの湊2

吉野川事典に書かれている文書を紹介します。
吉野川事典((財)とくしま地域政策研究所 編)から
千五百の浜
池田町の諏訪神社下の千五百河原にあった「はまの港」という吉野川の川湊は、江戸時代から大正時代にかけて池田の積み出し港として栄えた。陸上交通の不便な時代、物資の輸送や旅人の往来も、吉野川を上下する平田船という帆掛け舟に頼っていた。浜の上の諏訪神社は船頭衆の守り神であり、船頭衆によって扁額が奉納され、航海の神金刀比羅大権現が境内に祭られている。
浜から諏訪神社へ上がる石段の途中に建つ、高さ3mほどの常夜灯(嘉永7年(1854)9月7日建立)は、夜に吉野川を上ってきた川舟に浜の位置を教える灯台の役目を果たしたものであろう。
川下りの積み荷は、木炭・薪・三叉・かじ・藍・煙草・木材・しゅろの皮などで、川上りの積み荷は、米・小豆・塩・いりこ・わかめ・干魚・肥料・瀬戸物・衣類・雑貨などであった。
はまの港から谷町通じる道のかたわらに建つお地蔵さんには「流水灌頂地蔵」とあり、吉野川の洪水や平田舟で難のあった人々の霊を弔ったものと考えられる。なお、3代小笠原長房のとき、三好郡領と名乗る平盛隆が反乱し、千五百河原で戦いがあったと伝えられている。(須藤茂樹)

大きな常夜灯です。
はまの湊3

河原からは未完の池田橋が見られます。
はまの湊4

人通りも少なく寂しそうな狛犬。
はまの湊5

お地蔵さんは何故かヘルメットを被ってました。
はまの湊6

諏訪神社への階段を上った所からの眺望。
はまの湊7

現在はかんどり舟が何隻かありました。
昔はここにずらっと平田舟が並んでいたのでしょうね。
はまの湊8
吉野川の歴史遺産が残るにし阿波暮らし。美しい川の風景と共にあります。

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コメント

非公開コメント

現在、一般的には「浜」は「九十九里浜」のような水辺の平坦地の意味で使われていますが、江戸時代は「港」の意味でも使われていたようですね。
例えば半田の「小野の浜」は小野の港の意味。神奈川県の「横浜」は代表的な例かな。
吉野川の船便が物資輸送の主要手段だった江戸時代、吉野川沿いの各地に「浜」(あるいは「津」や「船戸」)と名付けられた川湊があったわけですが、三好郡内では千五百の浜ともうひとつ奥の白地の浜がもっとも大きな川湊だったと聞いています。
(そして白地の浜が川舟の終着点だったとも)

文化12年(1815)年に完成した「阿波志」には白地の浜に175隻の平田舟が集まっていたとあるので千五百の浜のほうもそれと同じぐらいの平田舟が常時係留されていたかもしれませんね。

Re: タイトルなし

阿波狸さんへ

川湊のことを、「はま」と言ってたようですね。
吉野川を積み荷いっぱいの舟が日々往来をし、川は暮らしとふかく繋がっていたんですね。

 明治時代、私の曾祖父と祖父が高知県で「寒峰」その他の土佐材を伐採して、池田まで流送しそれから筏に組んで徳島に運送したそうです。しかし、出水のため何年も費やして運んできた材木を全部海へ流失したこともあったそうです。川を利用する運送は無事にゆけば賃金も安く随分儲かったようですが、大出水-流失の憂き目を見た日には、虻鉢取らずになる。いわば、乗るか反るかの「大ばくち」だったみたいです。当時の木材事業は、稼ぐにも仕事の少なかった当時の端山、一宇、八千代村の男手を使ったから、山村の生活に相当な潤いをもたらしたそうです。(貞光町史P.847からP.848より援用)
 ご先祖も浜を利用し、写真の石段を上り参拝したかもしれないと思い、写真を拝見しました。

Re: タイトルなし

G3さんへ

先日見た本に掲載されてる古い写真では(本の名前忘れました)、三好橋の上流あたりだと思いますが、木材が大量に浮かべられてました。ここで筏に組んでいたのだろうなと思いました。
天気予報も未発達の時代に、大雨がふれば大変なことだったんですね。
しかし、筏流しや、平田舟の運行など吉野川は地域経済にも大きな恵みをもたらしていたということですね。

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