つるぎ町半田上喜来の新田神社
つるぎ町半田上喜来にある新田神社。

新田義貞が祀られています。最古の棟札は明暦4年(1658年)
にし阿波には新田神社が多くあります。
新編美馬郡郷土誌(笠井藍水編集)から少し紹介
「山岳武士と新田神社」
郡内の山間奥地を開墾した者は地方の豪族の一部や源平合戦、南北朝争乱、応仁の乱等の落武者などであったと推察される。
南北朝の頃、四国の宮方は吉野朝廷へ上将の下向を乞うた。脇谷義助が伊予へ下向したのは上将として四国の官軍を統率するためであったと信ぜられる。四国に入った事が正史に見えるのは義助のみであるが、新田一族を祀った新田神社やその墓所が数十個所あり、義宗、義治が来たと伝う口碑伝説が付随している。
田所眉東著「阿波新田氏」によると、阿波に新田神社が六十二社(うち美馬郡22、三好郡19)ある。これらの神社は大部分、悲惨な末路を遂げた新田一族の霊を慰めるために、宮方に属した山岳武士が奉祀したものであろう。そして、最初は小祠であったものも後世大きくせられ部落の氏神となったのも多い。

大きな木があります。

随身像。半田の神社に多くあります。

大きな像です。明治30年。

立派な拝殿。

彫り物も手が込んでいます。

上喜来周辺の集落図が、多聞寺のところにあります。

山間集落に歴史ある神社のあるにし阿波暮らし。山岳武士とのかかわりがあるようですね。
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新田義貞が祀られています。最古の棟札は明暦4年(1658年)
にし阿波には新田神社が多くあります。
新編美馬郡郷土誌(笠井藍水編集)から少し紹介
「山岳武士と新田神社」
郡内の山間奥地を開墾した者は地方の豪族の一部や源平合戦、南北朝争乱、応仁の乱等の落武者などであったと推察される。
南北朝の頃、四国の宮方は吉野朝廷へ上将の下向を乞うた。脇谷義助が伊予へ下向したのは上将として四国の官軍を統率するためであったと信ぜられる。四国に入った事が正史に見えるのは義助のみであるが、新田一族を祀った新田神社やその墓所が数十個所あり、義宗、義治が来たと伝う口碑伝説が付随している。
田所眉東著「阿波新田氏」によると、阿波に新田神社が六十二社(うち美馬郡22、三好郡19)ある。これらの神社は大部分、悲惨な末路を遂げた新田一族の霊を慰めるために、宮方に属した山岳武士が奉祀したものであろう。そして、最初は小祠であったものも後世大きくせられ部落の氏神となったのも多い。

大きな木があります。

随身像。半田の神社に多くあります。

大きな像です。明治30年。

立派な拝殿。

彫り物も手が込んでいます。

上喜来周辺の集落図が、多聞寺のところにあります。

山間集落に歴史ある神社のあるにし阿波暮らし。山岳武士とのかかわりがあるようですね。






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コメント
懐かしい
険しい山岳をようこそ取材してくださいました。
私の故郷です。
歳を重ねるごとに故里の事、ルーツなども知りたくなりますが、
今となっては昔を知る人も文化を継承する人もなく、
だんだん消えゆく集落を悲しい気持ちで見守るだけでした。
でもこうやって、存在していた事を知っていただき
とても嬉しくなりました。ありがとうございます。
2013-02-16 17:00 さら URL 編集
Re: 懐かしい
コメントありがとうございます。
山間部の集落を訪ねると、苦労して積んだであろう田畑や屋敷の石垣や、集落を繋ぐ山の尾根を通る道など、昔の賑わいを想像させる姿がまだまだ残っています。
そして、歴史ある地名や、神社、お堂など興味は尽きません。
この魅力を、少しでも写真に撮って伝えたいと思っています。
これからもよろしくお願いします。
2013-02-16 20:32 白うさぎ URL 編集